2017年01月26日

「時代はサーカスの象にのって」 演劇ユニット「プロジェクト・ニクス」1/19 から 新宿FACE(新宿歌舞伎町)

http://www.project-nyx.com/home.html

若松武史登場!

時代は.jpeg
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2014年01月04日

ロック至上史観からの転向 大滝詠一の死去に直面して考えたこと

去年ルー・リードが死去し
青山純が亡くなり
12月30日に大滝詠一が解離性動脈りゅうで死去した。(リンゴをのどにつまらせたわけではなかったようだが、そんなことがどうてもよくて、むしろ「リンゴ」のほうが氏らしいかもしれない。いやでもそれは、もっと老衰してからだろうけど)
他にもいろいろ亡くなった。
ジム・ホール、フィル・ラモーン、島倉千代子、山口富士夫、それから天野祐吉、戸井十月、大島渚、大鵬、常盤新平、安岡章太郎、岩谷時子、、、、、、、

何かしらを語ろうとする時に僕は歴史を語る癖がある。ややこしくて面倒な話になるので、当然、話は長くなり最後まで聞かない人がでるのは無理もなく、特に気にしていない。音楽の話でも映画の話でも、ビジネスでも、数学の話でも、結局歴史みたいな話を系統的に多次元になるから、疲れるよね。
ずっと前からそうなのだ。高校生のころからずっとそう。
ハードロック、パンクロック、プログレッシブロック、ヘビイメタル、デスメタル、スラッシュメタル、LAメタル、ネオアコ、ニューロマンティックもともろ、まあどうでもいいのですが、こういうのがロック至上主義の歴史観から導かれる詳細分析なのだが、今となってはどうでもいい。
それらを個別で深く追求し、悦に入ることはそれで良い。
私はそうでないので、聴いて楽しむということとは別に、年代にならべ、なにかしらの関連付けをおこなうことを楽しいと感じる。
ただ自分ひとりでやると結構大変なので、こういうのが役に立つ。

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2013年08月15日

「寺山修司幻想図書館 ~書を捨てよ、町へ出よう~」展(8/31まで)

「寺山修司幻想図書館 ~書を捨てよ、町へ出よう~」展(8/31まで)

会期:2013年8月8日(木)~8月31日(土)11時~20時 *尚、8月19日は全館休館
会場:EYE OF GYRE/GYRE 3F(東京都渋谷区神宮前5-10-1 TEL:03-3498-6990)

「寺山修司幻想図書館~書を捨てよ、町へ出よう~」展トークセッション
8月20日(火)午後6時30分~
「いま考える~書を捨てよ、町へ出よう~」
松田美由紀(女優)、田口ランディ(小説家) 司会:生駒芳子(アートダイナミクス代表)
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2013年05月06日

ゆとり世代の尾崎豊

最近の朝日新聞にでは、ゆとり世代がなにを考えていて、それが親の世代といかに違うのかをコラムとして掲載している。
お金のこととか、将来のこととか、競争せずがつがつせず、「痛い大人」になることをうまく回避している心理構造が語られているのだが、そのうちのひとつのエピソードに「尾崎豊」のことがでてきた。
新聞のこと、そしてその解説をしているのが「香山リカ」なのでどこまで信じられるかはかなり疑問が残る偏った書き方だった。
でも、もともと尾崎豊的な心象風景に違和感のあったこともあり、まだ覚えているので書いておく。

尾崎といえば
「15の夜」と「卒業」なのだが、
これを聞いた昨今の中高生は共感とはまったく別の
「こんなことしても無駄」「先生とはうまくやるのが得」「ここまでやったらまずい」などの
批判的な感想がでてきた。
今までなら誰もが尾崎に心を揺さぶられたはずなのだが、このあたりもゆとり世代が他の世代と大きく異なることを示している。

なんて内容。

そもそも尾崎がなぜ世代間の比較軸になるのかよくわからん。
尾崎を聞けばこうなる、ってのは誰かの思い込みで、ゆとりでなくても、もともと尾崎が現役だったころにもあまり良い歌だと思わず、心情に共感しなかった人もいるだろう、と思う。
なにしろ俺たちがそうだったのだから。
学校や教師に対する不満などを歌にすることに何の意味があるのだろう、と思っていた。反発だけがテーゼであって、破壊にたいする衝動が生命のきらめきとはならないということを少なくとも僕は本能的に感じていた。だから全然、尾崎のことを愛せなかったし、それに熱狂する人もよくわからなかった。
なぜこんなにも人生に倦んでしまい、元気よく矛盾と欺瞞と寂しさを暴きだすような歌を歌ってカリスマと呼ばれるのか、ぜんぜーんわかりませんでした。
音楽的にも新しくなく、「金八」的厨房の世界をちょっと「おしゃれに」に「カッコよく」歌にして、ロック的な世界に慣れていない若い子たちをオーディエンスに引き込んでいたように見え、エピックは商売がうまいよ、などという話を売れないバンドをやっていた私は周囲に話していたのを思い出す。海援隊もそこまでできなかった。
エピックソニーは当時そうやって、渡辺美里とかなんやらを売り出していた。
「青春ロック」
バブルだったんだよ、世の中は。
ただ面白くはあったけど。
だってさ、東京ドームのコンサートで、中に入れなかった連中がどうしていたかっていうと、壁に耳をつけて崩れるように泣いていた、それが何百人もいたんだ。後楽園で馬券をすった後、それを目の当たりにして寒い感じがしたな。その数年後に地下鉄サリン事件だった。あの事件の異常さと、あの日の後楽園の光景は直感的に結びついた。

ゆとり世代はなにかと揶揄されるが、それほど悪くないよ、
がんばんべ
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2013年05月04日

96条を守ろう

 「(現行憲法は)連合国軍総司令部(GHQ)の憲法も国際法も全く素人の人たちが、たった8日間でつくり上げた代物だ」と安倍氏は発言しているそうだ。

その素人の人たちよりも今回の96条をターゲットにした改憲活動は素人の行動である。
96条は極めて欠陥のないまっとうなもので、立憲主義と法の支配の表れである。近代法の整備のなかで、あたりまえに定められるべきことが書かれているだけのこと。
素人がゆえに、普通に「置いた」だけのように見える。
これを「素人」が作ったことろ理由に、都合の良いように換えるのは民主国家であることを止めるに等しい。

経済ではグローバルスタンダードなんてことを盛んに言うくせに、もともと政治はローカライズ、それに引っ張られて司法もローカライズ、世界から嘲笑されるだろう。こうやってなにがなんだかわからないうちに、TPPやなにやらでどこに帰属していいのかわからないような国民意識となってゆくのだろう。そうさせないために、真剣に96条はそのままにして、そのルールに従い憲法改正を行うことが絶対に必要だ。
学校で法学などを学んだ人なら絶対に理解できることだ。
この原理はいわゆる「基礎法学」にある当たり前の考え方で、これを理解せずにあらゆる法の習得はありえないからである。法の支配こそが近代法学の基礎であり、現代西欧型国家の根本である。
そこから離脱し、独自の法思想を求めるのなら話は別だが、どうもテクニック的なことばかりで、解釈改憲のほうがはるかに理性的であった。96条の改憲を唱える人たちは間違いなく、あるべき国家像が幼稚すぎるし、これまで多くの人たちがチャレンジした改憲を勉強していない人たちである。
ほかの条文の良し悪しは私にはわからないが、96条の改憲だけは絶対に悪である。これこそが憲法の改悪であることは議論の余地がない。しかしこのことを小林節しか言わないので、この国の法律学会も腐ってるのだということがよくわかった。
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キヨシロウがいない世の中

キヨシロウが死んでもう4年となった。

つまらない世の中である。

でも、清志が言いそうなことを想像するのは簡単になってきている。
キヨシロウの精神は僕の血肉になってきているようだと、勝手に思っている。

福島第一があんなになって、原発がない世の中こそがすばらしいのだと、多くの人たちが行動を起こしている。
が、新聞もテレビもほとんど無視だ。

別に今にはじまったことではない。
清志が堂々とそれを歌った時の世間の反応、特に音楽業界の冷たい扱いをしていたことで、こんな世間だってことは学習していたことがだから今さら驚かないし、そんなものだと思っているよ。

僕はあのアルバムの「ラブミーテンダー」と「イマジン」くらいに愛に満ちた日本のロックを知らない。
だけど日本の放送局は全然ながさない。皆に聞かせない。
だめだ、この国のメディアはさ、保身ばかりで、この曲を毎日流さなければいけないことがどれくらい罪なのかってこともわからない。本当のことなんていつもこうやってどこかに隠されて、安定と快楽、自己の生活の保全が最優先だ。足元がどんなにエラく危険なことになっていても、それに気がついてばたつくカナリアの鳴き声を無視する。最悪だ。ロックってもんがわかっていない。本当にカッコいいことがわかっていない。

あげくにカナリアはいなくなって、社会のことなど知らない奴らばかりさ。
キヨシロウをしのんで武道館でやっているイベントももはや、石原裕次郎や美空ひばり、マイケル・ジャクソンと同じ部類さ。清志が訴えたかった、カッコいいロックなんてのはどうでもよくなっている。

まあどうでもいいのだ、俺は俺の心の中に国家を構築することにぼろぼろになりながら励むだけさ。
残念ながらロックで独立はできそうもないけどね、100%無理だ。

せめてこの本くらい読んでよね。

原発を完全にコントロールするほど人類には知恵はなかった。
リスクをとるかどうかは、コントロール可能なことが前提だが、原発はリスクを管理する範疇のものではない。だから程度の議論などは無用で、用いるべき技術ではないのだ。危険とその見返りを計算して、破滅しないようにするなんて賢いことができないということを福島第一は示している。文明の限界だろ。
限界の外にあるものにあえて手を出して、100年後の人類に対し責任を持たないなんて、なんて子供なんだ。自分たちの子孫になにを残すのか、そんな単純なことを考えずに、現世的な利益を求める。そういうのをおろかっていうんだ。
本当に貧しい思想とはそいうことだろう。冷静に考えれば50年なのか100年なのかわからんが、貧しく生きることを受け入れるというのが本当の知恵だ。貧しさに耐え、考え抜けばいいのだ。その知恵がないのであれば、理性なんてものをあてにしているこの文明などはまやかしで、愚かな幻想だ。まさに足元を見ないで、足元のゴミをそのままに、偉そうな講釈に酔っているのが新聞だしテレビだ。
テレビなんてもうやめちまえばいいんだ、面白い番組があるかよ、うむ。

愛しあっているかい、否だ、否。
自分の子供を愛しているなら、故郷を愛しているのなら、してはいけないことは自明だし、しなくてはいけないことをすぐに始められる。
愛こそすべてだ、ラブ ユア チルドレン。
イマジン、想像しろ、こんなもんなくなってどうにかなるだろ。
大切なのは人で、人が健康でなければならない、反論できない理屈だ。国富というのは人材のことである。カネはおまけ、まじめに人を育てたおまけ、くらいなもんだ。
憲法をかえれば人が育つのか?こんな汚染列島に。
国の土からしか、次世代を担う人は育たない。
愛があれば、子供を殺さないし、子供が子供を死ぬまでいたぶらない、大人同士が愛をもって話をしないから子供がだめになる。
今子供同士でやっていることが、おそらく10年後には国家レベルでおこなわれることになるだろう。
いくら理想を述べたところで、家に帰って楽しい家庭を作れない輩が、自分の家以上の国家、社会を作れるだろうか?選挙で勝ち、新しい政党を作る過程になにをやっているかをみれば、そいつらがどんな国家を作るのか見えるのさ。半径10メートルの範囲でやっていること以上のことができるのか?
足元のゴミを拾えない奴が、良い国なんて作れるわけがない。

だれか歌ってくれないかね?
自由なカッコいいロックを歌ってくれないかね?

キヨシロウがいないから、こうして考えているだけなのだが、彼の歌を30年以上聞いて育った僕はカッコいいロックがでてきたら、それを称えることくらいをやろうと思います。
ロックは表現であり、生き方であります、流行でない。





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2011年10月09日

さらばヒッピー

ジョブズは神でもなんでもなく、すこし賢いコンピュータを良く理解したヒッピーであるというのが、私の見解である。
理由はこの映画をみればわかるかも



この映画はかなりデフォルメされてはいるが、大筋では事実であるようだ。ヒッピーのヤツらのモンキービジネス、虚々実々の駆け引き、その心は剽窃のそしりなんか成功すれば気にせずにすむ、とばかりに強引に前に進んだ若き日のジョブズ、ゲーツ。

彼らの青春武勇伝が今のネット社会のスタートであった。ゼロックスでもなくIBMでもなく、それらを手玉に取った若造たちが主導できたからこそ、この驚異的な成長力となっているのは否定できない。

とはいえ、彼らも年を取った。
ジョブズは確かに若かったが、彼が作ってきた世界では十分すぎるほどだ。
とっくに引退して余生をおくるのがアメリカンドリームなのだから、引退していいのである。
しかし今でもなおヒッピーなのだから、オンザロードなのは当たり前。
その途中で倒れた。
それならばやはり我らの英雄だろう。
しかしやはり神ではない。
シリコンを応用し、自由をもたらした稀代のリーダー。

でもなにをしたかったのかはよくわからない。
人とは違うことにこだわったのだけがよくわかるけどね。
iphoneが売れすぎてからこっち、さすがのスティーブもその先の世界は語れなくなっていたような気がするからだ。
クラウドなる世界で不可欠なデバイスのリーダーになったが、そのアップルがクラウドを作るところまではいけなかった。
このプラットフォームでなにかを作るところまで見せてほしかったような気がするのである。


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2011年10月03日

モータースポーツの終焉とこの文明の終わりの予感



日本でF1が開催されなくなり、インディーも終わった。この政界的規模のモータースポーツの祭典に参加していたホンダモーターがレース活動を縮小するためである。
ホンダという会社が10年前とは変わってしまったこと、いや変わらざるを得なくなった世界経済の失速が大きな要因ではあるが、では経済が回復すればホンダはレースを再開し、日本にGPシリーズが戻ってくるかと言えばそうでないような気がする。
ホンダという会社は実に奇妙に見える。いや車メーカーがそうなのかもしれないが、その時代の要求を先鋭化することにかけてはホンダが一番先鋭的な
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2011年06月19日

村上春樹のスピーチ エルサレム賞 「高くて、固い壁があり、それにぶつかって壊れる卵があるとしたら、私は常に卵側に立つ」

「高くて、固い壁があり、それにぶつかって壊れる卵があるとしたら、私は常に卵側に立つ」って言葉を思い出して、誰の言葉だっけ、と探したら村上春樹でした。
自分が壁の側にいるのか、卵の側か、もちろん卵の側ですよ、毎日毎日壊れて家に帰って、少しなおしてまた外に。
今日、改めて読んでみると、弔い、死者への眼差し、そういうものが人との絆、連帯のもとになる、強固なシステムに闘いを挑んで壊れてゆく卵があっても、壊れてしまった卵を忘れない、それが人間である証なのだ、ということを言っている。
経済性を至上価値ととらえることにたいしての否定論は、リーマンショック以来繰り返し見ることができるが、それは卵のようにすぐに壊れててどこかに行ってしまう。今回の震災に直面してすら、経済性の優先度は揺るがない。なんと高い壁なのだ。おまけに民主主義なんてものまでがあっちについてしまっている。安心して卵が壊れる世の中ですらないのだ。
みな賢いからデモにもいかない。壁側の人たちがそれを嘆いているのを直に聞いて、本末転倒ここに至りと失笑した。
さあ、明日が闘いの1日目だ。

 こんばんは。わたしは今日、小説家として、つまり嘘を紡ぐプロという立場でエルサレムに来ました。
 

 もちろん、小説家だけが嘘をつくわけではありません。よく知られているように政治家も嘘をつきます。車のセールスマン、肉屋、大工のように、外交官や軍幹部らもそれぞれがそれぞれの嘘をつきます。しかし、小説家の嘘は他の人たちの嘘とは違います。小説家が嘘を言っても非道徳的と批判されることはありません。それどころか、その嘘が大きければ大きいほど、うまい嘘であればいっそう、一般市民や批評家からの称賛が大きくなります。なぜ、そうなのでしょうか?


 それに対する私の答えはこうです。すなわち、上手な嘘をつく、いってみれば、作り話を現実にすることによって、小説家は真実を暴き、新たな光でそれを照らすことができるのです。多くの場合、真実の本来の姿を把握し、正確に表現することは事実上不可能です。だからこそ、私たちは真実を隠れた場所からおびき出し、架空の場所へと運び、小説の形に置き換えるのです。しかしながら、これを成功させるには、私たちの中のどこに真実が存在するのかを明確にしなければなりません。このことは、よい嘘をでっち上げるのに必要な資質なのです。


 そうは言いながらも、今日は嘘をつくつもりはありません。できる限り正直になります。嘘をつかない日は年にほんのわずかしかないのですが、今日がちょうどその日に当たったようです。


 真実をお話しします。日本で、かなりの数の人たちから、エルサレム賞授賞式に出席しないように、と言われました。出席すれば、私の本の不買運動(ボイコット)を起こすと警告する人さえいました。これはもちろん、ガザ地区での激しい戦闘のためでした。国連の報告では、封鎖されたガザ市で1000人以上が命を落とし、彼らの大部分は非武装の市民、つまり子どもやお年寄りであったとのことです。


 受賞の知らせを受けた後、私は何度も自問自答しました。このような時期にイスラエルへ来て、文学賞を受けることが果たして正しい行為なのか、授賞式に出席することが戦闘している一方だけを支持しているという印象を与えないか、圧倒的な軍事力の行使を行った国家の政策を是認することにならないか、と。もちろん、私の本がボイコットされるのは見たくはありません。


 しかしながら、慎重に考慮した結果、最終的に出席の判断をしました。この判断の理由の一つは、実に多くの人が行かないようにと私にアドバイスをしたことです。おそらく、他の多くの小説家と同じように、私は人に言われたことと正反対のことをする傾向があるのです。「行ってはいけない」「そんなことはやめなさい」と言われると、特に「警告」を受けると、そこに行きたくなるし、やってみたくなるのです。これは小説家としての私の「気質」かもしれません。小説家は特別な集団なのです。私たちは自分自身の目で見たことや、自分の手で触れたことしかすんなりとは信じないのです。


 というわけで、私はここにやって参りました。遠く離れているより、ここに来ることを選びました。自分自身を見つめないことより、見つめることを選びました。皆さんに何も話さないより、話すことを選んだのです。
 ここで、非常に個人的なメッセージをお話しすることをお許しください。それは小説を書いているときにいつも心に留めていることなのです。紙に書いて壁に貼ろうとまで思ったことはないのですが、私の心の壁に刻まれているものなのです。それはこういうことです。


 「高くて、固い壁があり、それにぶつかって壊れる卵があるとしたら、私は常に卵側に立つ」ということです。


 そうなんです。その壁がいくら正しく、卵が正しくないとしても、私は卵サイドに立ちます。他の誰かが、何が正しく、正しくないかを決めることになるでしょう。おそらく時や歴史というものが。しかし、もしどのような理由であれ、壁側に立って作品を書く小説家がいたら、その作品にいかなる価値を見い出せるのでしょうか?


 この暗喩が何を意味するのでしょうか?いくつかの場合、それはあまりに単純で明白です。爆弾、戦車、ロケット弾、白リン弾は高い壁です。これらによって押しつぶされ、焼かれ、銃撃を受ける非武装の市民たちが卵です。これがこの暗喩の一つの解釈です。

 
 しかし、それだけではありません。もっと深い意味があります。こう考えてください。私たちは皆、多かれ少なかれ、卵なのです。私たちはそれぞれ、壊れやすい殻の中に入った個性的でかけがえのない心を持っているのです。わたしもそうですし、皆さんもそうなのです。そして、私たちは皆、程度の差こそあれ、高く、堅固な壁に直面しています。その壁の名前は「システム」です。「システム」は私たちを守る存在と思われていますが、時に自己増殖し、私たちを殺し、さらに私たちに他者を冷酷かつ効果的、組織的に殺させ始めるのです。


 私が小説を書く目的はただ一つです。個々の精神が持つ威厳さを表出し、それに光を当てることです。小説を書く目的は、「システム」の網の目に私たちの魂がからめ捕られ、傷つけられることを防ぐために、「システム」に対する警戒警報を鳴らし、注意を向けさせることです。私は、生死を扱った物語、愛の物語、人を泣かせ、怖がらせ、笑わせる物語などの小説を書くことで、個々の精神の個性を明確にすることが小説家の仕事であると心から信じています。というわけで、私たちは日々、本当に真剣に作り話を紡ぎ上げていくのです。


 私の父は昨年、90歳で亡くなりました。父は元教師で、時折、僧侶をしていました。京都の大学院生だったとき、徴兵され、中国の戦場に送られました。戦後に生まれた私は、父が朝食前に毎日、長く深いお経を上げているのを見るのが日常でした。ある時、私は父になぜそういったことをするのかを尋ねました。父の答えは、戦場に散った人たちのために祈っているとのことでした。父は、敵であろうが味方であろうが区別なく、「すべて」の戦死者のために祈っているとのことでした。父が仏壇の前で正座している後ろ姿を見たとき、父の周りに死の影を感じたような気がしました。

 
 父は亡くなりました。父は私が決して知り得ない記憶も一緒に持っていってしまいました。しかし、父の周辺に潜んでいた死という存在が記憶に残っています。以上のことは父のことでわずかにお話しできることですが、最も重要なことの一つです。


 今日、皆さんにお話ししたいことは一つだけです。私たちは、国籍、人種を超越した人間であり、個々の存在なのです。「システム」と言われる堅固な壁に直面している壊れやすい卵なのです。どこからみても、勝ち目はみえてきません。壁はあまりに高く、強固で、冷たい存在です。もし、私たちに勝利への希望がみえることがあるとしたら、私たち自身や他者の独自性やかけがえのなさを、さらに魂を互いに交わらせることで得ることのできる温かみを強く信じることから生じるものでなければならないでしょう。

 
 このことを考えてみてください。私たちは皆、実際の、生きた精神を持っているのです。「システム」はそういったものではありません。「システム」がわれわれを食い物にすることを許してはいけません。「システム」に自己増殖を許してはなりません。「システム」が私たちをつくったのではなく、私たちが「システム」をつくったのです。
 これが、私がお話ししたいすべてです。

 
 「エルサレム賞」、本当にありがとうございました。私の本が世界の多くの国々で読まれていることはとてもうれしいことです。イスラエルの読者の方々にお礼申し上げます。私がここに来たもっとも大きな理由は皆さんの存在です。私たちが何か意義のあることを共有できたらと願っています。今日、ここでお話しする機会を与えてくださったことに感謝します。ありがとうございました。
posted by ガレージランド at 12:06| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年11月15日

解放されたスー・チーさん、支持者数千人を前に第一声

団結

ああ、ジョーストラマーの鉢巻きを思い出す。

遠藤みちろうが「万国のプロレタリアート団結せよ」を思い出す。

相互扶助と自由な連帯、ミャンマーと勝手に連帯するぞ

posted by ガレージランド at 02:35| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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