2013年05月03日

憲法記念日につき

マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや
寺山修司

かっこいいねえ、まるで「カサブランカ」のボギーですねえ。
でもあの映画のラストシーンでは「愛国者」になるんですけどね。

寺山はこうも言っている。

人力飛行機ソロモンのなかで昭和セイゴが披露していた。

ぼくにとっての日本は、一枚の日の丸の旗であった。風にひるがえる日の丸の旗を仰ぎながらぼくは思ったものだ。なぜ、国家には旗がありながら、ぼ自身には旗がないのだろうか、と。国家には「君が代」がありながら。ぼく自身には主題歌がないのだろうか、と。夏に死にそこねたセミが、この飛行機の翼弦にとまって鳴いていたが、思えばセミも又ひろげた翅を旗としてその鳴き声を歌とし、国家と釣合うほどの象徴をもっていた。月光仮面も自分の歌をもっていた。赤銅鈴之助も自分の歌をもっていた。だがぼくにはオンボロの旗もたった四少節の歌もなかったのだ。なるほど国家主権はもはや妄想となってしまった。そして、ぼくらは政治国家を単なる管理機関としてしか見なくなり、自己確証として、死滅した国家にとってかわるものを自らのうちに求めようとした。「ひとが誰でも、じぶんの作ったものの中にしか住むことができない」とするならば、自らをして国家たらしむるほかはないだろう。つまりもっと規模の小さな共同体は、ぼくにとってはぼく自身の存在であり、ぼくを構成する肉体と支配、同一化と分極、必要とされる管理と支配、それらこそまさに日本問題ではなかったのか、と。ぼくはぼく自身にとっての国家であり、そのことはあなたの、あなたの、あなたの、あなたの、あなたの、百万人の問題でもある。ヘーゲルは国家を理性の現実態であると言い、人倫の担い手が国家であるといったが、いまやぼくにとってぼくの論理を現実化してゆくのはこの眼であり、腕であり、そしてこの喉からほとしばしり出る声の機関車である。血はぼくの肉体、ぼくの国家を走り抜ける鉄道であり、そのすべての始発駅は心臓である。ぼくはぼくの心臓駅のプラットフォームから、ぼく自身に向かって日本論をぶちまけよう。事物も人間も、あらゆる世界の現象も、思い出せば日々の「命令」によって創造されたのであった。命令は四散した事物を回収し、一家を集合せしめ、眼には光を、群集には国家を創造させる。だが一体、誰がその命令をおくり出したのか?誰がエイハブ船長に鯨狩りをつづけよと命じ、誰がジンギスカンからトロッキーにいたる人びとに絞刑吏たれと命じ、誰が平原に雨を降らせよと命じ、誰が沓掛時次郎に旅立てと命じ、カラスにとべと命じ、サビンコフに爆弾を投げよと命じたのか?言葉は忽ちぼくの肉体を集合体として扱い、国家を幻想した。見よ。ぼくはぼく自身の国家である。ぼくはぼく自身の国家である。ぼくはぼく自身の国家である。―そしてぼく自身の歴史は未だに記述されたことはなかった。

長いけど、つまりは「戦後、家長制が失われたら、個人主義がやってきた。我が国において我々と国家などが結びつく絆は生まれることなく、国家は死滅した。残ったのはこの僕、すなわちこれからは、ぼくはぼく自身の国家である。国家から独立し、歴史に参加するのである」なんてことだ。

最初の歌が提示した疑問に対する答え、命をかけるのは自分国家なのだ!

ところで現行憲法では「個人の尊重」が明記されている。
国家の前に、個人があるわけである。これは個人がなにがしたいのかが重く、国家が個人に介入することを防いでいる。

あべ政権が盛んに憲法改正と叫んでいるのは、国防軍を明記するとかもっともらしいことを言っているのだが、そんなことよりこの「個人の尊重」を撤廃したいようである。
まあそうだよな、このまま個人のやりたい放題にさせていたらこの国土から人がいなくなる一方だし、残った人も適当に働いてあとは国になんとかしてもらおう、なんてことだからな。
強制的に国家に奉仕させなければ、クニが崩壊する、ってエライやつが考えるのも無理はない。
一方で、憲法から「個人の尊重」がなくすことに賛成ですか反対ですか、って言われても、なかなかわかにくいだろう。
日本はどういうわけか、この個人の尊重という憲法の精神をありがたいともそうでないとも思っていない。
今の憲法が西洋民主主義的であるのは、この個人の尊重の思想があるからであるのだが、これが占領軍がぽいっと「これ当然でしょ」と置いて行ったものだから、意味が良くわかっていないだろう。国家の横暴から主権者である国民を守る、ということ宣言し、そのために各条項で縛りを入れてあるのだ。安倍氏がテーマにしている96条もこの「守り」の一部である。
自衛隊を合憲とするために9条を改正する、それはいいことかどうかは国民が議論すればいいだけで、そのルールとして96条のルールに従えばいいのだが、このルールを「ハードルが高すぎる」と氏は言っている。
馬鹿をおっしゃいますな、今の時代、新聞が書かなくてもネットでなんでも調べられますがな。
アメリカのほうが厳しいくらいですよ。
「アメリカの場合、上下両院の3分の2以上の賛成で発議され、全州の4分の3以上の州議会の賛成があれば承認される」ですが。
これにどう反論されるのかはわかりませんが、ハードルが高いからハードルを下げて9条改正やら個人の尊重を緩和しようとするのは褒められた考えではないように思う。
なにか子供じみた言い訳と欺瞞、そして楽な方法で議論を避け、胸を張れない結果となるように思える。これで自主憲法と西欧に説明できるのか?その方法も内容も。

というわけ、安倍政権、自民党と維新の会などが「やろう、やろう」と思っていことは誠にくだらない。面倒な議論を重ね、真剣にやろうとしないと、結局はまた恐ろしい時間とコストがかかることになるだろう。

寺山修司が生きていたころはもう少しましだったと思うが、自分のなかに国家を持て、ということがなにかを気づかせるという遊びでもなく、へたれに対する挑発でもなく、真剣に国家をもつという大事業を個人がする時がきたのだ。
国家がつぶれる前に、ぺちゃんこにされない自分を作り、戦うのである。


posted by ガレージランド at 23:11| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 寺山修司 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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